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第一幕 三場  梅雨。曲がりくねった道を。

「次に、蓮役は……」
 部員に比べれば通るとはいえない笑実の細い声も、静まり返った今の部室には凛と響く。お願い、私の名前を……でもここで決まったら後戻りは出来ない。主役になりたい気持ちと別の人に決まって欲しい気持ちが土壇場のここまで来て入り乱れ、緊張は最高潮に達する。名前が読み上げられるまでのほんの短い時間が、まるでスライムの中でも動いてるように妙にのってりと遅く感じられた。
「相模礼子!」
 栄の中の時間が、止まった。
(私じゃ……ない? 私、主役じゃないんだ……。)
 何だか実感のない頭でただそんなことを思う。みんなにつられるように先輩に拍手を贈りながら、その恥ずかしそうな笑顔をぼんやりと眺めた。
(相模先輩が蓮かあ。いいじゃない。格好良いし、背高いし、素敵だし、似合う。ははっ、なんだろ、全然悔しくないや。)
 そう思った時、主役にならなくてホッとしている自分にようやく気付いた。急に恥ずかしくなる。
(うわ……こんな、決まらなくて安心するような覚悟だった? ダメだな。こんなのでもし決まっちゃってたら、先輩方に申し訳かった。)
 栄が一人でそんな事を考えてる間も、配役の発表はどんどん進む。飛鳥は希望通り早苗役に決まり、頬をほんのり上気させているのが見える。栄も間もなく名前を呼ばれ、蓮の友達の一人である爽太の役に決まった。最後に部長が、改めてみんな頑張ろう! と笑顔で激励の言葉を述べる。
「オーディションが結構急だった事から察している子もいると思うけど、七月公演までは本当に日が無いの。のんびりしてる暇なんてないから、すぐ立ち稽古に入ります。特に主役・準主役になった人、いつまでも台詞が言えないようなら途中からでも役変えるわよ。」
 その瞳の冷静さと真剣さが、これが脅しでも何でもなく本気だという事を示している。礼子が大げさだと言うようにちょっと肩をすくめてみせるが、その瞬間軽く睨まれた。
 そしてその日の後半の活動は、次の活動から立ち稽古に入るための準備。具体的に言うとシーンごとの話し合いだ。立ち位置や台詞のタイミング、ほしい小道具など大まかに決めてしまう。早いようだけど、公演の日まで2ヶ月ないのだから。
「先輩……、ちょっといいですか?」
 早苗の出る最後のシーンの話になった時、飛鳥がおずおずと言った。
「ん、なになに?」
 雪穂が妙に楽しそうに聞き返す。この様子では、きっと用件を察してるに違いない。飛鳥にしては珍しくもごもごと言い難そうにしていると、沙矢子がそれを見つけて呟いた。
「あ。キスシーン発見。」
 飛鳥はぎゃあっと小さく悲鳴をあげて赤くなってしまう。栄も台本に目を落としてその場面を見た。相手は当然ながら蓮だから、先輩とという事になる。相手が私だったらここまで過剰に反応したかなあ、なんて栄が苦笑していると、礼子はぱらぱらとページをめくって事も無げに言った。
「ん? ああ、これか。大丈夫だよ。」
 そしていきなり、飛鳥の後頭部をつかんで引き寄せた。
「ひゃああっ!?」
 飛鳥が変な悲鳴を上げ、先輩はそこでぴたりと止める。本当に寸止めといった感じで、顔と顔の間は10センチほどしか離れていない。
「このくらいで暗転するから。あ、もしかして初めて?」
 顔を真っ赤にし、体を固くしてこくこくと頷く飛鳥。何だか小さくぷるぷる震えている。その様子を見て礼子は笑顔を見せ、顔を離して後輩の頭をぽんぽんと撫で、芝居がかった調子で言った。
「ふっ、可愛い奴。」
 すっぱーん。その台詞が飛鳥のハートにクリーンヒットした音が、もちろん錯覚だけど聞こえた気がした。栄は呆れながら、気絶寸前の飛鳥の背中を支えつつ後頭部をひっぱたいて呟く。
「莫迦。」
 それにしても、飛鳥がキスシーンやったこと無かったとは。栄にしてみれば意外だった。栄は一応一回だけ女の子と顔スレスレを経験した。もっとも相手は同級生だったが。
「相模ちゃーん。だめよぉ、後輩で遊んじゃ。知ってる? あんたファン多いんだよ。」
 ニヤニヤしつつ言う京花に、礼子は馬鹿馬鹿しいと肩だけすくめてみせた。それからふと何か思い出したように栄を見て、言った。
「神谷ちゃん、ゴメンね。」
「はい? 何がですか?」
 彼女はきょとんとする栄にウインクして、一言。
「この子の――飛鳥ちゃんの隣のポジション取っちゃって。」
 一瞬、言葉の意味が分からなかった。先輩の楽しそうな笑顔をしばしポカンと莫迦みたいに眺めてやっと冗談を言われたんだと了解し、慌てて同じノリで返す。
「え? あ、いやっ、別にそんなんじゃないですから! 飛鳥なんかで良ければどうぞどうぞ!」
「さりげなく幼馴染に対してド失礼な事言ってんじゃないわよ莫迦。」
 あっと言う間に放心状態から復活した飛鳥の鉄拳(手加減アリ)を後頭部に喰らう。部室内のどこからともなくくすくす笑いが起こり、やがて全員に広まった。飛鳥も笑っているし、栄も仕方なく照れたように笑う。慌ただしかった部室内の空気が、一気に緩んだ。

 

 栄の美園への感情が微妙に動いたのは、立ち稽古が始まって間もなくの事だった。
 間抜けにも部室に忘れ物をした栄。飛鳥に「ほらほら、ちょっとなら待っててあげるからとっておいで」と妙に上から目線で言われたので待たせては悪い――いや、どんな目に遭うか判らないと廊下を走っていた。部室のドアに手を伸ばした瞬間、
「何か、私に言いたい事があるんじゃない?」
 雪穂部長のやわらかい、しかし強い調子の声が聞こえて、思わず手が止まった。
「いいのよ、遠慮しないで。と言うより教えてほしいの。不満を全て無くすことまでは出来ないかも知れないけど、努力だけはしたいから。」
 さっきよりさらに優しい声で彼女は言う。と、それに答えるふてくされた声が小さく聞こえた。
「別に、良いんです。今さら変わりませんから。」
 栄ははっとした。その声は間違えようもなく、あの戸塚美園のものだった。そう言えば、さっき帰る間際に雪穂が美園に声をかけていたのを思い出した。
「でも、あなたは納得してない。おそらく配役に。そうでしょう?」
「……どうして、判るんですか?」
 美園のいぶかしげな問いに答える雪穂の言葉は妙にあっけらかんとしていた。
「だって、由依になりきれていない、ううん、なりきろうともしていないんだもの。」
「えっ……」
 由依は蓮の妹、美園の役名だ。美園は驚いて、少し怒ったように言う。
「そんな……あたしの演技が、不真面目だって言うんですか?」
「違うの、そういう事じゃない。」
 一言で否定された。
「演技は頑張ってる。舞台に立つのは初めてだって言ってたけど、それにしてはとても良くやってると思うわ。でもね、」
 雪穂は一回言葉を切り、ゆっくりと言い聞かせるように言った。
「気持ち、よ。まだ‘由依’というキャラクターの心を掴みきれてない。彼女と共鳴できてないの。それは多分、‘由依’を演じる事を心から楽しめてないから。」
「……。」
「あなたが早苗を希望してて、その役になれなかったから?」
 少し間が空く。やがて美園は言った。
「そう……ですね。そうかも知れません。あたしは、早苗になりたかったんです。先輩、あたしに早苗は出来ませんか?」
 どこか思いつめた声のようにも聞こえた。雪穂は軽く息を吐いて答える。
「そうね、出来ないとは思わないわ。でも、西原さんの方がより相応しいとしか言いようがないわね。」
 美園ががっくりするのが雰囲気だけで感じられた。でもね、と彼女は続ける。
「今回、早苗を希望したのはあなた達二人。蓮役の希望が三人、トワ役の希望が二人。この意味分かるよね?」
「……はい。」
 厳しく戒めるような口調に、美園はしゅんとしてしまう。先輩は今度は優しく言った。
「由依は、明るいように見えて心に影を持った子なの。今までお互い唯一無二の存在だった兄に恋人が出来て、自分をあまり構ってくれなくなってしまう。嫉妬しようにも、その相手は自分の友達。‘いい子’の由依には恨む事など出来ない。きっと苦しいでしょうね。」
「……。」
「どうにも出来ずにぎこちないまま、彼女は死んでしまう。相手に自分の気持ちを打ち明ける事も出来ず、曖昧なまま。由依はどう思ったかしら?」
 美園は考え込む。そして言葉を慎重に選びながら言った。
「きっと、あたしなら、自己嫌悪したんじゃないかと思います。もっと早く自分の気持ちを言っておけば、こんな後味の悪さは残らなかったって。あっ……」
 はっとして、美園は彼女を見下ろしている先輩の笑顔を見上げた。
「もしかして、これ……今日声をかけてくださったのも、このためですか?」
「あなたなら、きっと彼女の心を分かってくれると思った。少し、近い部分を持ってるから。由依はそれほど重要なキャラクターではないけれど、わだかまりを隠した難しい役なの。それをあなたは託されたのよ。胸を張って頑張りなさい。」
「はい!」
 栄は会話にすっかり聞き入っていた。そして、入部して一月も経たないのに既に一年生の、中でもあまり喋らないような美園の内面を部長が見抜いている事を知り、舌を巻いた。配役もオーディションだけで決めた訳ではなさそうだし、栄が主役を希望しながらも不安だった事までお見通しだったのではないかとすら思えてくる。
 栄がドアの外で色々考えを巡らしていると、そんなことを知る由も無い美園の声が聞こえた。
「先輩は、あたしの母をご存知なんですか?」
 母? 栄には何の事だかわからない。雪穂の答えに、余計混乱した。
「まあね、同業者だから。」
 どうぎょうしゃ? その言葉の意味を栄が考える間もなく、
 突然、後ろから抱き付かれた。
「!?」
 思わず声を上げそうになったが、驚きすぎて声が出ない。パニックを起こしかけたまま、ずるずると後ろに引きずられていく。そして、栄を羽交い締めにした人物はその耳元で囁いた。
「立ち聞きとは感心しないね、爽太。」
 聞き覚えがあるどころではない、ついさっきまで会話していた声。栄は何とか気持ちを落ち着けてその名を口にした。
「月……じゃなかった。光せんぱ」
「その名前で呼ぶ時は、‘先輩’も無しな。役の上では同級生なんだから。」
 副部長は栄の肩をがっちりと拘束していた手を放して言う。まったく、部活関係の時は役名で呼び合うなんてルール、一体誰が作り出したんだろうと栄は思った。冗談半分なのか真面目なのかも分からない。蓮や爽太の友人・光役の月香はやれやれというように肩をすくめ、手に持っていたものを差し出した。
「ほら、忘れ物。探してたんだぞ。」
「あっ、すみません! ありがとうございます!」
 ポーチを受け取って頭を下げる。気を付けろよ、と笑う先輩の顔が何故か少し寂しそうで、栄は不思議に思った。が、深く考えてる暇はなかった。
「ああ。そう言えば、飛鳥ちゃん待ってたぞ。行き違いになりましたって、教えてくれた。早く戻ってあげな。」
「あっ!」
 怒り顔の飛鳥とその文句の嵐を想像して、栄は若干青くなった。月香にもう一度お礼を言って、慌てて駆け出す。ジュースの一本くらい奢らされるだろうなと思いながら。

 

「じゃあ、あたしはここで。また明日ね、蓮くん。」
「ああ、気をつけて帰れよ。」
 ボーイフレンドに手を振り、明るい笑顔で駆けて行く早苗。少年も笑顔で手を振りながら、そんな彼女の後姿を見送っていた。
 と、その手の動きが不意に止まる。一人の少女が早苗をじっと目で追うのを見たからだ。
 彼女は艶やかに長い黒髪をなびかせ、塀の上に腰掛けている。年はおそらく彼らと同じくらいといったところか。だがその整った顔は無表情で瞳は冷たく、明らかに普通の女の子ではなさそうだと感じられた。そしてその白い手に握られている物は……
「あの鎌って……まさか、死神?」
 彼女の身長ほどもありそうな、光を浴びて鈍色に輝く大鎌。蓮は自分が見たものが信じられないように顔をしかめる。そんな彼の呟きが聞こえた筈もないのだが、少女が不意にこちらを振り向いた。二人の視線が合う。その時、
「おっす、蓮。」
「何だ何だ、早苗ちゃんの後姿にでも見とれてんのか? いいよな、あの娘。」
 そんな言葉が聞こえて振り向く間もなく背中をど突かれ、蓮は前のめりにコケてしまった。
「痛っ! ……なんだ、お前らか。爽太、光。」
 振り向かなくたって声で分かる、二人の親友もとい悪友。というよりこーゆー餓鬼っぽい莫迦をするのはこいつらしかいない。まあ高校生男子なんてこんなものだ。蓮はど突かれたあたりを軽くさすりつつ、今一番の関心事に意識を戻した。あの子は、まだ同じところにいる。
「なあ、あの子……なんであんな所にいるんだろうな?」
 そちらを指差し、そして初めて二人の方を振り返った。すると、二人とも怪訝な顔で視線を泳がせている。
「あの子って、何の事だ? 誰もいないぞ。」
 爽太の言葉に蓮は驚いて、急いで再びそちらを見る。まさか幽霊のように消えてしまったのか?とも思ったが、彼女は変わらず同じ位置に腰掛けている。蓮は混乱してきた。
「は? 何言ってるんだ。見えないのか? ほら、あそこの塀の上……っ!」
 全て言い切る前に、蓮はふとして言葉を切った。まさか、彼女は自分にしか見えないのか? どうやらその通りらしい。光は呆れたように、爽太は本気で心配したように言った。
「おいおい蓮、どうしちまったんだよ。いきなりお前まで八重みたいなこと言わないでくれよ。」
「蓮、お前ひょっとして疲れてないか?お前がそんなこと言い出すと心配になってくるよ。」
 八重とは、三人と同じクラスの霊感少女だ。蓮は二人の言葉に少し唖然とするが、からかわれるのも心配されるのも嫌だった。なので、ぎこちなく誤魔化すように後ろ頭を掻いて首をひねる。
「何……だろうな、見間違えかな。ところで何か用か?」
 むりやり話題を変える。二人ともまだ何か釈然としないようだったが、その時小柄な少年が駆けて来て、明るく三人を呼ぶ声がした。
「先輩っ! 置いてきぼりなんてヒドイじゃないですか!」
「ははっ、悪い悪い。そんな拗ねてんじゃねえよ、康平。」
 光は駆け寄ってきた後輩の頭をぽんぽんと撫でる。康平は仏頂面でその手を避けた。
「別に拗ねてませんよっ。ガキ扱いしないでください。」
 ぎゃあぎゃあ騒ぐ康平はよけい子供っぽく見える。ただ、それをあしらう光も同じノリで、二人は苦笑するしかない。
「なに二人してじゃれてんだよ。行くぞ。」
 爽太が笑いながら言い、四人は賑やかに喋りながら歩いていく。そんな中、蓮は一度だけあの子の方を振り向いた。大鎌、白い肌、無表情な瞳。さっきと変わらぬ冷たい姿が、そこにあった。ほんの一瞬、視線が合う。
「おーい、蓮? 早く来いよー」
 先を歩いていた光が大声で彼を呼んだ。
「あ、ああ。今行く。」
 彼女を見ていたかったけれど……蓮はそれを振り切って、友人達のあとを追って駆け出した。
 一人残された少女は、手に鎌を持ったままふわっと地面に飛び降りる。少年達が去って行った方を見つめ、ほんのわずかに眉をしかめた。
「彼、あたしが見えるんだ。珍しい。」
 呟くと、そのまま大して気にも留めない様子でそちらに背を向け――

「よし、OK!」
 雪穂部長の凛とした声が部室に響いた。

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