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第一幕 四場  初夏。見えてきた大好きな場所。

「特にトワ、良いよ。その調子でお願い。早苗ちゃん、そんなに速く走っちゃダメ。体弱いんだから。」
「そうね、もうちょっと軽くスキップする感じ。蓮は悪友どもに遠慮しないの。」
 はきはきとした指示が飛ぶ。主に今のシーンで出番のなかった部長と、顧問の川崎先生だ。それを、栄は意外そうな目で見ていた。
「爽太せんぱーい、何をそんな変な目で見てるのかなあ?」
 不意に後ろから声をかけられ、栄はびっくりして振り返ろうとする。が、その前に相手は両腕を肩に乗せて栄におぶさるような姿勢になった。耳元に吐息を感じるほど顔が近いので、振り返ったらどうなるかは簡単に予想がつく。それだけは絶対に避けたい。
「あ……歩美さん? ちょっと近くないですか。」
 同性だが、ここまで近いと妙にどぎまぎしてしまう。それに歩美(役の京花)はかなり脱力して体重を預けてきているので下手に振り払うわけにもいかない。彼女はけだるそうに言った。
「そうかなー? 女子同士だし、別にいいと思うんだけど。で、話を戻すわよ。何見てたの?」
 どいてくれる気は全くないらしい。栄はとりあえず諦めて、質問に答える事にした。
「いや、あの……川崎先生を。うちのクラス先生に英語習ってるんですけど、演劇とか知ってるの意外だなと思って。それに、ここまで活動に関わってくる顧問って珍しいらしいですし。」
「あら、知らないの?」
 京花はきょとんとして言うと、体を離してナイショ話の姿勢をとった。
「川崎先生って、ここのOGなんだよ。」
「えっ!? そうなんですか?」
「うん、しかも演技も役者としてやって行けるんじゃないかって言われたほど上手いのよ。だから演技指導するのも当然ってわけ。」
 へえ、と栄が感心していると、当の川崎先生が遠くから声をかけてきた。
「爽太くん、あなたちょっと思い切りが弱いわね。まわりが先輩ばかりだからやりにくいかも知れないけど、舞台上では同級生だからね。何ならまずクラスメイトで練習してごらん。」
「あ、はい。」
 部室の半分以上を占める舞台スペースに、一つだけ置かれている机。さっきトワが腰掛けていたものだ。それを撤収しながら部長が周りに指示を出す。部員たちはバタバタと次のシーンに移った。

 

 その数日後の事だっただろうか、あの会話を聞いてしまったのは。
「わざわざ呼び出して、何か用ですか?」
 物凄いトゲのある声。怒鳴りたい気持ちを抑えているようで、普通に言うつもりが少し声が大きくなってしまったという感じだった。そしてそれは、どこかで聞き覚えのある声ではないかと栄には思えた。
「栄、あれ。」
 栄と二人、一年生の教室前あたりを一緒に歩いていた飛鳥がまず気付いた。栄もその視線で示した先に目をやる。そこでは、ポニーテールの一年生が派手な三年生と向き合って立っていた。その一年生、後姿しか見えないが、あれは間違いなく……
「あれ、戸塚さん……戸塚美園じゃない?」
「うん、そうだと思う。」
 二人とも思わず足が止まってしまっていた。当の二人は栄たちに見られている事に全く気付いていない様子で、会話を続けている。
「そんなつっけんどんに言わなくたっていいでしょ、美園ちゃん。だいたい、こうでもしないとあたしと喋ってくれないじゃない。もしかして避けてる?」
 カールのきつい髪を片手でいじりながら三年生は穏やかに言うが、美園の口調は変わらない。
「避けてますよ。分かってるもの、あんたが母さんの手先だって事くらい。」
「手先だなんて人聞きが悪い。あの人のスパイしてるつもりはないわよ。」
 事情を知らない部外者には何の事だかサッパリ分からないが、あまり深入りすべきではないのは分かる。しかしそのまま知らないふりして通り過ぎようにも、タイミングがつかめない。
「じゃあ公演観に来ないでよね。」
「あら、妹の晴れ舞台を観に行っちゃいけないの?」
 妹? 美園に姉がいるなんて初耳だ。でも、彼女は美園には全然似ていないように見える。
「それに、あなたが出る出ないに関わらず観に行きたいの。ここの演劇部、あたし好きなんだもの。」
「じゃあ勝手にすれば。浦和さんが何するかなんて興味ないし。」
 美園は苛立ったように、めいいっぱい強調して相手の名を口にした。姉妹じゃなかったんだろうか、苗字違うし。栄と飛鳥はよけい混乱してきた。
「いいわよ、母さんに言えばいいじゃない。あなたの娘は希望した役にもなれなかったって! きっと演技だって見てられないほどヘタクソよ! 期待通りに育ったもう一人の娘とは比べ物にならない落ちこぼれだもの!」
「美園ちゃん!」
 美園はそのまま逃げるように教室に入っていく。肩を落とした三年生も諦めて立ち去ってしまった。まるで少女漫画のワンシーンのようなものを目の当たりにしてしばし唖然とした栄と飛鳥の二人だったが、我に返って自分達の教室へとまた歩き出す。別れてそれぞれのドアを開けた時、飛鳥が声を上げた。
「あ。」
「どうした?」
「今の三年生の人、どこかで見覚えがあると思ったの。鈴美さんだわ。」
「ああ。」
 浦和鈴美。その名前だけは栄も知っていた。白金姉妹と同じく、この学校のちょっとした有名人だ。しかし彼女は、白金姉妹が美人で頭も良くおまけにスポーツも出来るといういわば個人の能力によって目立ってるのとは違い、そういう点ではまるで普通の人だった。
 浦和鈴美は、大女優の娘だった。
 彼女の母は戸田薊という。演技派で知られ、あちこちで活躍している派手な印象の女性だ。目鼻立ちはハッキリしていて少々キツく、それに合うキツイ役が多いような気がする。確か彼女自身はこの学校の卒業生ではなかったと思うが、縁が無い訳でもないらしい。よく知らないけど。飛鳥が栄より鈴美をよく知ってるのは、中学も宮ヶ丘の付属中で一緒だったからだ。
 いろいろな事を考えたが、栄はとりあえず放っておく事にした。特に仲が良い訳ではないので、こういう事は聞きにくい。同じクラブだし、せめて普通に口がきければいいのに……

 

 昨日と同じ路上。あの少女が一人ぽつんと立っていた。辺りにほかの人影はない。彼女は特に何か目的があるようでもなく、ゆったりとした足取りで歩いていく。整った顔は完全なる無表情で、その手にある大鎌とあいまって、近寄りがたいような不思議な雰囲気をかもし出している。
 その足がふと止まった。彼女自身のものではない足音が耳に入り、振り向く。視線の先に、一人の少年が立っていた。
「やあ、また会ったね。」
 笑顔で発せられた言葉に、彼女はほんのわずかに眉をひそめる。
「君、あたしが見えるの?」
 その言葉に、少年――蓮は頷く。少女がそのまま何も言わないので、彼は言った。
「君は……人間じゃないんだろ? その鎌は死神みたいだけど、翼は天使みたいだ。どっちなんだい?」
「どっちも正しいわ。人間達はそのどちらかの名前であたし達を呼ぶ。」
 彼女はまるで他人事(ひとごと)みたいに言葉を紡いでいく。
「死神も天使も、人間が考えたイメージにすぎない。どちらでも同じこと。あたし達は、命が終わった人間の魂を回収する。これを使って。」
 言いながら、その手に持つ大鎌の柄を軽く撫でた。蓮はハッとし、初めて警戒する様子を見せた。
「まさか、それで早苗を殺すのか?」
 少女はしばし無言で彼の顔を見つめ、その所為で彼の不安が煽られてからポツリと呟く。
「自分の心配はしないの? 不思議な人ね。」

「爽太くん、ちょっといい? 熱心に観てるとこ悪いんだけど、」
 自分が出ないシーンの練習風景を眺めていたら、同じく出番のしばらくない梨絵に声をかけられた。
「何? 陽子。」
 役名で呼ぶとまだちょっと照れる、演劇初挑戦の同級生。何だか可愛い。彼女は言った。
「出るシーン間が空くなら手伝ってって、歩美せんぱ……歩美ちゃんが。なんか部庫に荷物取りに行くんだって。」
「ふーん? 良いよ、手伝うよ。」
 二人と京花、美園、飛鳥の五人は部室棟の端にある広い物置へと向かう。そこはいくつかの部活のエリアに分けられていて、見たところ演劇部は結構なスペースを陣取っていた。それでも太ペンで中身が書いている段ボール箱がエリアからはみ出しそうなほど積み上げてある。その中から京花は、『羽・翼』だの『男物制服』だのと書かれた段ボールを掘り出しては後輩達に渡していく。
「はい、この重そうなのは男子が持とうね。」
「えっと、私、男役でも一応女子なんですけど。」
 それを部室に運び込むと、ちょうどシーンの切れ目だったらしく全員が手を止めて集まってきた。
「とりあえず必要そうな物は全部持ってきたけど、他に何かある?」
 先輩は笑顔で、箱を開け始めた部長に尋ねる。
 段ボール箱の群れをひとしきりチェックすると、部長はちょっと考えながら言った。
「うーん、そうね。ここに無い物は部活に無いから各自用意だけど。今回の衣装はわりと楽ね。笑実ちゃんに感謝しないと。」
 そして最近は二回に一回以上の割合で部活に顔を出している脚本担当の笑実が、女子生徒である早苗、由依、歩美、陽子、そして部長の演じる八重(この5人は制服をそのまま使うらしい)以外のメンバーの衣装を細かく指定していく。と言っても今回、役柄は大きく分けて三種類。男子学生はブレザーとズボンのサイズを選ぶだけだし、トワとその仲間のアンは同じような黒いロングスカートに白い翼。衣装合わせも大して手間はかからなかった。
「よしオッケーイ!じゃあこれで、次回の練習から衣装着てやるから。早苗ちゃんワンピ持ってきてね。トワとアンは黒キャミソール、男どもはYシャツを忘れないように!」
 衣装がすんなり決まったのがよほど満足なのか、八重役の雪穂先輩は何かやたらと活き活きしている。季節が夏に近づいているのを、衣替え期間に入って冬服より多く見かけるようになった明るいグレーのスカートが示していて、それは同時に七月公演まで間がない事も思い出させた。

 

「爽太くーん、暇だよぉー。」
 ある時の部活中。舞台スペースから戻って来た栄に、突然そんな事を言って早苗が後ろから飛びついてきた。栄と飛鳥の身長の関係上、抱き付くなんてものじゃない、完全に負ぶさっている。
「なーに言ってんだよ早苗ちゃん。それに、抱き付く相手は俺じゃないだろ。」
 やれやれと言いながら、その細い腕を掴んで背中から引き剥がす。
 ちらっと舞台の方を見ると、蓮とトワが向かい合って立っていた。トワは最初の方のシーンでは全くの無表情で奈々先輩の演技に感心したものだが、これとこの次のシーンあたりでは蓮の言葉に動揺し、それを隠そうとする様子が出てくる。そんな細やかな表現が分かりやすく、しかしさりげなく伝わって来るのにも改めて感心した。
 栄がそんな事を考えているのを余所に、飛鳥は小声で続ける。
「蓮くんってば今忙しいし。だってホントに暇なのよ。わたし、さっきのシーンで死んじゃったからもうあんまり出ないんだもん。」
「……それでもまだ出るじゃん幽霊。」
 小声で言い返す。自分より出るシーンが多い奴がこんな事を言ってるとなんだか理不尽な気がしてしまうものだ。特に嫌いな……と言うより自分が認めていない相手だったら殴り倒したくなるくらい。
「ゆーれーって言わないで。ちゃんと足あるもん。」
「いや足ないのとか不可能だし。」
 飛鳥が変な風に混ぜっ返した所為で話題がどんどんどうでもいい方向へ向かっていく。その時、舞台に立っている部長の代わりに怖いくらい真剣な顔で演出を指示していた月香先輩が早苗の名を呼んだ。
「ほら、出番だよ早苗。」
 栄は幼馴染の背中をぽんと叩き、彼女を舞台上へと送り出した。

 

 一人の少女が机に腰掛け、退屈そうに足をぶらぶらさせている。と、そこに純白の翼の黒い天使がゆっくりと入ってきた。真っ白なワンピース姿の少女はその天使の方を見ずに、まるで独り言のような調子で話しかける。
「会って来たんでしょ、蓮くんに。」
 天使――トワはそっと目を上げる。早苗を見る彼女の目には、かすかな動揺が見えた。早苗はそれに気付いているのか、ポツリと尋ねた。
「ねえ、彼……泣いてた?」
 トワは何かを考えているようにじっと早苗を見つめる。しばしの間のあと、微笑みかける早苗に促されるように一言だけ呟いた。
「分からない、雨の中だもの。」
 そして早苗の顔を真っ直ぐ見つめて尋ねる。
「まだ、行けないの?」
 早苗はちょっと顔を曇らせ、目を伏せた。
「うん……まだ、ちょっとだけ心配だから。ゴメンね。本当は、さっさと私を送らなきゃならないんでしょ?」
 トワはゆっくりと頷く。早苗は申し訳無さそうにもう一度「ゴメンね」と呟いた。
「謝らなくていい。その気になれば、本当は強制的に送る事だって出来る。けど、そうすると魂が引き裂かれてしまう事がある……。あたしは、そんな事したくない。」
 早苗に説明するというより自分に言い聞かせるようにトワは言った。早苗はちょっと意外そうに彼女を見、腰掛けていた机からすとんと飛び下りてトワの顔を覗き込んでほんのりと微笑む。
「優しいんだね。私、死神ってもっと怖いものだと思ってたわ。」
「早苗……」
 トワはそんな早苗が差し出した手にそっと自分の手を近付ける。その手を両手で包み込むように握って、早苗は友達に言うように優しく囁いた。
「あなたは、まるで天使みたいよ。」

 

「はい、OK。」
 そう言う雪穂の表情も、いつになく嬉しそうに見えた。
「ほーら、やっぱりこのシーンの早苗ちゃん、衣装変えて良かったでしょ? 私の判断は正しい。」
「分かったわよ、もう。だからそれで良いって言ったじゃない。」
 その脇で笑実が呆れたように肩をすくめている。二人は小学校からの幼馴染だと言うだけあって、ものすごく仲が良い。というより笑実は雪穂に振り回され慣れている。
「雪、その話はもういちいち蒸し返すな。面倒だから。ほら次行くぞ。」
 月香が言ったちょうどその時、部室のドアがノックもなしにいきなり開いた。
「お待たせーっ! 雪ちゃん、月ちゃん、チラシ印刷上がったよ!」
「しのぶ! ありがとう、待ってたのよー。」
 白黒印刷の紙の束を抱えた、二年生の女子生徒。雪穂が踊り上がらんばかりの勢いで迎える。チラシを受け取ると、集まってきた部員達に一クラスに一枚ねと配り始めた。
「すごーい、天才! さっすが川口っちゃんよね!」
「ずるいよな、しのぶ。絵も上手いうえに頭よくてスポーツも出来て。万能だよな。」
 受け取った京花や礼子が感嘆の声を上げる。一年生達もチラシを見て思わず目を丸くした。
 中央には白い翼を広げたトワ。鎌を片手で持ったまま両手を広げ、祈るように瞳を閉じた顔を正面に向けている。その周りに蓮や早苗など登場人物たちの笑顔が描かれている。その笑顔も全員一緒ではなく、それぞれの個性や感情が見える。蓮ならちょっと寂しそうに、何も知らない脇役ほど無邪気に笑っている。顔は写真のようにそっくりという程ではないのだが、特徴を掴んでいるのでイメージにピッタリだ。光の顔が謎めいて見えるのは結末を全部知っているからだろうか。題や日時の文字も綺麗で、目立つのに絵を邪魔していない。
「こちら、イラスト部の部長の川口しのぶ。いつもポスターとかチラシとか頼んじゃってるんだ。しのぶ、ホントいつもありがとね。」
「なーに言ってんの。長い付き合いじゃないか。あたしなんかで良いんならいくらでも使ってよ。」
 瞳を潤ませてしのぶに抱きつく雪穂……やっぱりちょっと芝居くさい。そんな二人の脇で、奈々がぼそっと呟いた。
「あと一週間ちょっとかあ。」
 一瞬、部室が静まり返ったように感じたのは栄の錯覚か。
「そうだねー。チラシ遅くなっちゃってゴメンね。」
 申し訳なさそうに言うしのぶ。が、一年生連中の耳にはほとんど入らない。みんな一斉にもう一度チラシの日付けを確認した。梨絵が思わずうめく。
「あと9日しかない……」
 みんな殆ど本番の日にちを忘れていたのに今さら気付かされたのだ。月香は呆れたように苦笑する。
「何だ、みんな揃って忘れてたのか? 大丈夫だよ、まだ通常の部活も2回あるし、リハもあるし。もう殆ど完成してたじゃないか。」
「でも、やっぱり怖いじゃない。緊張するのよ。」
 京花が引きつったような笑みを浮かべながらフォローしたが、あっさり流されてしまった。
「不安を無くしたいなら、さっさと練習に入るぞ。」
 かくして、かつて無いほど緊張感を持って通し練習が再開された。

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