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第一幕 六場  初舞台。さあ、ほんとうの第一歩。

 本番直前。閉まった緞帳の向こうのざわめきが少し、舞台裏まで聞こえてくる。
「……うああ、緊張する。」
「栄うるさい。」
 ほんの微かな栄の呟きを耳ざとく聞きつけた飛鳥がぴしゃりと遮る。ものすごくピリピリしてるらしく、声に凄いトゲがある。そして、ヒロインらしからぬ事がもう一つ。
「飛鳥、すごいカオしてるよ?」
 眉間にシワ、表情も心なしか引きつっている。このまま顔が固まってしまいそうだ。が、ひとこと言っただけで思い切り睨まれたので口には出さない事にした。
 と、そこへ、
「早苗。どうした?」
 いつもとあまり変わらないような落ち着いた声に、二人はそちらを見る。若干緊張気味のようだがそれでも笑顔の礼子は、いきなり早苗こと飛鳥の頬を両手の平で挟んだ。
「ぷっ!?」
「ほらほら、そんな顔してるとシワが固まっちまうぞ。リラックスリラックス。」
 にこやかに飛鳥の頬をぷにぷにして遊んでいる先輩に、栄はほんの少し呆れた風に聞いた。
「先輩は緊張しないんですか?」
「してるよ。当り前だろ。」
 むしろ何でそんなことを聞くのかときょとんとして答えられて、栄は逆に戸惑ってしまう。蓮役の礼子先輩は、そんな後輩達が可愛くて仕方がないかのように微笑んだ。
「緊張しないわけないじゃん。何てったってほぼ主役だぜ? けどね、もうここまで来ちゃったんだから。今さらジタバタしたって仕方ないだろ。」
 栄たちにだってそれが分かってはいるものの、なかなかそこまで開き直れないものである。尊敬の眼差しで自分を見ているのが栄や飛鳥だけではなく、ちょっと離れたところにいる新人の京花や七波の視線まで集まっているのを感じたのか、礼子は照れくさそうに笑って付け加えた。
「それに何より、みんなを信じてるからさ。」
 そう言うと、少し舞台袖に目をやる。そこには、照明係の二年生と最後の打ち合わせをしている月香の姿があった。
「一緒にやるみんなは勿論だけど、それだけじゃない。ほら、雪も月もさっきっからずっと音響室に照明に、裏を走り回ってるだろ? 俺達みんな、裏方班に支えてもらってんだ。」
「こっちも、すごいよ。」
 突然声がして、みんな一斉に振り返る。緞帳の側に立っている奈々が、嬉しそうに微笑んでいた。
「客席、もう結構埋まってる。裏方班も大事だけど、一番大事なのはこっちでしょう?」
 部員の殆どが一瞬でそこに殺到した。隙間を押し広げて覗くと、確かに講堂の座席の半分ほどが埋まっている。栄は、その中に安芸子と愛那が隣同士で座っているのを見つけた。今まで一緒にいるところを見たことはなかったのだが、知り合いなのだろうか。
「今回ばかりは奈々にやられたな。いい事言ったつもりだったのに。」
 苦笑している礼子の言葉など聞こえているのかいないのか。みんな思い思いに小声でリアクションする。
「うちのクラス結構来てる人多いなあ。」
「げ、すげえ。イラスト部が川口っちゃん中心に大集結してんぜ。」
「うわー、中学の後輩来てる!」
 飛鳥の言うとおり、高校とは少し違う制服もちらほら見える。高校で受験して来た栄と違い中学から上がってきた飛鳥は、その中に知った顔を見つけたのだろう。
 その時うしろから声をかけられて、そこに群がっていた部員達は思わず飛び上がった。
「何してんのあんた達。幕上がれば嫌でも見えるわよ?」
 呆れたように言った雪穂に、みんな気まずそうに笑う。スタンバイするよう促されて、早苗、歩美、陽子の三人を除いて袖に引っ込んだ。由依役の美園はすぐにでも出られる位置に立ってテニスラケットをしっかり握っている。それを確認して、部長は幕前に出て行った。
「本日は、高校演劇部七月公演にお越しいただきありがとうございます。……」
 もうすぐ幕が上がる。ちょっと身を震わせた栄の肩を、月香が軽くとんとんと叩いてくれた。ふと、舞台上から不安そうな目でこちらを見る飛鳥と目があった。栄は大丈夫、というように微笑んで親指を立ててみせる。飛鳥もそれを見てちょっと微笑み、頷いた。
「それでは、どうぞ最後までお楽しみ下さい。」
 先輩のよく通る声の後、ゆっくりと幕が開き始めた。袖に戻って来た彼女が美園に合図を送ると、彼女は少し緊張した面持ちのまま頷いて、小走りで舞台上へと飛び出した。
「きゃー、忘れ物! 部活遅刻しちゃうっ!」
 幕が開ききり、由依のハキハキした台詞が講堂に響く。順調な滑り出しに雪穂は満足げな笑顔を見せる。そしてスッと眼鏡をかけると、その瞬間ぱっと「八重」に切り替わるのが隣に立っているだけでも分かった。
 それが高校での初舞台が始まった合図であるかのように、栄には思えた。

 

 歩美がのんびりとした調子で、駆け込んできた由依に声をかけた。
「やっほー由依ちゃん、今日も部活? 大変ね。」
「まあね、試合近いし。」
 手に持ったテニスラケットを軽くとんとんと叩いてみせる。由依役の美園がラケットと共にテニス部の友達から借りたというユニフォームは、ちょっとだけサイズが大きい。まあ仕方ないけど。荷物をごそごそと適当にいじってから、由依は三人に話し掛ける。
「ところで、何の話してたの? ずいぶん楽しそうじゃん。」
「へへっ、恋・バ・ナだよっ! ねえ由依ちゃん、好きな人とかいないの?」
 早苗の机に手をついたまま身を乗り出した陽子の問いかけに、由依は笑いながら手を振る。
「やだな、いないよぉそんなの。」
「えー、もったいない。由依ちゃん可愛いのに。」
 心底意外そうに言ったのは、一人だけ席に座ったままの早苗。こうしていても分かるほど小柄だし、色白だし、飛鳥は本当にぴったりな配役だ。中身は全く違うのだが。
「どこが。男から見て可愛いってのはね、早苗みたいな子の事を言うのよ。」
 大げさに肩をすくめて言う由依。早苗は可愛いと言われたのを否定もせず、ただにっこりした。いいのか、それ。それは「早苗」というより「飛鳥」の反応だぞ。
「人の事はいいからさ、歩美と陽子はどうなのよ。恋バナとか言うからには、いるんでしょ、好きな男子。」
 そんな早苗こと飛鳥の様子に気付いているのかいないのか、多分いっぱいいっぱいで気付いてなんかいないのだろうが、由依は悪戯っぽく笑って残りの二人に切り返す。歩美と陽子からは正反対の反応が返ってきた。
「わ、私は別に……」
「私ね、同級生なんかより、断然先輩がいいの! 例えば、由依のお兄ちゃんとか……」
 赤くなってうつむく歩美と、勢いよく食い付く陽子。京花先輩はあまり知らないからともかく、陽子役の梨絵は絶対、これは素と一緒である。目をキラッキラさせた陽子の台詞を、早苗が素早く遮った。
「だめっ! 蓮くんはあげないよ、私のカレシだもん。」
 ぷっと頬を膨らます早苗。それを見て、陽子は大声で笑った。
「冗談だってば、もう。あと、爽太先輩とか。あっ、光先輩もいいな。めっちゃ格好良いよねっ!」
「うっわあ、イケメン三人組じゃん。陽子ってば面食いなんだ。」
 早苗が呆れ返った調子で言う。由依の兄で早苗のカレシの蓮を演じるのは部活で一番背が高い礼子、その友人である光を演じるのは副部長の月香で、二年生の男役ツートップである。それに栄が演じる爽太を入れてイケメン三人組だなんて……栄は今更ながら畏れ多くて逃げたくなってきた。
「光先輩はやめときなよぉ。あの人、カノジョいっぱいいるって噂じゃない。私、浮気っぽい人は嫌だな。」
 冗談半分のように笑いながら言った歩美に、由依も便乗する。
「確かに、私も聞いた。本当らしいよ。お兄ちゃん言ってたもん。」
 大爆笑する四人。おなかを抱えて笑いながら、陽子は早苗にも話を振った。
「ところで早苗、そういうあんたはどうなのよ?」
「私? 決まってるじゃん。私は、蓮くん一筋よ。今はそれ以外なんて考えられない。」
 大真面目に答えた早苗。幸せ一杯の笑みを浮かべる。由依は大げさに肩をすくめてみせた。
「分っかんないなあ。あんなお兄ちゃんのどこがいいの?」
「全部。」
「おおっ、言うねえ。」
 後ろにハートマークがつきそうな早苗の口調。陽子がヒューっと口笛を吹いてひやかす。由依は興味なさそうにもう一度ただ肩をすくめた。
「ふーん、そういうもんなのかね。って、あ、あれ?」
 急に由依の様子が変わった。焦った表情で鞄の中身を引っ掻き回している。何か探しているらしい。
「どうかしたの?」
 歩美が尋ねると、由依はがっくりと肩を落として荷物の上にぐたっと身を投げ出してうめいた。
「飲み物忘れた。あーあもうバカ最悪……」
「うっわ、ドンマイ。」
 その肩を、陽子が慰めるように優しくぽんぽんと叩いた。その時。
「おーい、由依まだいるか?」
「蓮先輩!」
 歩美が思わず悲鳴のような声で叫ぶ。舞台下手側から姿を現した蓮はそれに手を振りながらゆっくり歩いてくる。その声を聞いて由依は顔を上げ、膨れっ面のまま振り向いた。
「お兄ちゃん。何か用?」
「何か用、じゃねえだろ。ほら忘れ物。」
 蓮は苦笑しつつ、ピンク色の水筒(もちろん小道具、中身はカラだ)を差し出した。由依の顔がパッと明るくなる。
「あっ、ありがとう! よかったあ。じゃ、部活行ってくるね!」
 ひったくるように受け取った水筒とその他いくつか荷物を持って、駆け出そうとする。本当ならこのまま退場なのだが、歩美役の京花がそれを焦った様子で呼び止めた。
「由依ちゃんっ! ラケット!」
 一番大事なテニスラケットを、早苗の机に立て掛けたまま忘れていったのだ。美園は慌てて取りに戻り、客席から少しだけ笑い声が聞こえた。よかった、京花先輩がとっさに役名で呼べて。もし万一美園ちゃんなんて言っちゃったら、完璧に事故である。それにしてもこの様子じゃ、一見そうでもなさそうだけど美園は相当テンパってるらしい。
 美園が姿を消すと、早苗は何事もなかったかのように蓮の腕にぴたっと抱きついた。
「蓮くん、一緒に帰ろっ!」
「ああ。」
 さりげなく早苗の鞄まで持った蓮は、彼女に優しく微笑みかける。
「いいなー! 羨ましいな、私も彼氏ほしいっ!」
 そんなことをわめく陽子に早苗は笑顔で手を振り、二人は楽しそうに下手側へと歩いていく。二人が完全に退場すると、舞台はゆっくりと暗転した。

 

「ふうっ、やっぱり緊張するなー。」
 いくつ目かのシーンを終えて袖に戻ってきた陽子役の梨絵が、小さな声で呟いた。舞台はどんどん進み、今舞台上はちょうど早苗の死のシーンをやっている。たった今袖に駆け込んできた由依と入れ違いにトワが出たから、このシーンもそろそろ終わる頃か。そんな梨絵に、彼女と同じクラスの沙矢子が小声で言い返した。
「それはこっちのセリフだよ。わたしなんて、ほとんど先輩と一対一なんだから。」
 沙矢子の役は、トワと同じ死神のアン。死神である彼女は、仲間のトワと霊感少女の|八重《やえ》くらいしか姿を見られない。一緒に舞台に立って演技するのもその二人だけだ。そして劇中では対等かそれ以上で話さなくてはならないので、シーン数は少ないもののとてもやりにくいと沙矢子は前からぼやいていた。
「次に出るシーンなんて八重さんと睨み合いだよ? はっきり言ってめっちゃ怖いの。」
 泣きそうな声で言う。が、表情すら出してはいけない役なので、舞台上では怯んだ様子すら|微塵《みじん》も表に出すわけにいかない。あの部長と対等に視線を合わせるだけでも相当な度胸が必要だとは思うので、栄は励ますように頷いて沙矢子の肩を叩いた。
 その時、あたりが暗くなった。舞台が暗転すると、袖も当然ほぼ真っ暗になる。完全に暗くなったのを確認してから、早苗役の飛鳥がベッド代わりの折りたたみ式の台を引っ張りつつ駆け込んできた。台をとりあえず押し込んで手の空いてる人(この場合は栄と沙矢子)にパスすると、一気に一番奥まで引っ込んで衣装を着替え始める。それと入れ違いに陽子や歩美、由依が舞台に上がった。
 次のシーンが始まったのを横目で見ながら、栄は手早く掛けられていた布を外して台を折りたたむ。この短いシーンが終わったら爽太も出番なのだ。ぐずぐずしてはいられない。何とか片付けて邪魔にならない隅に押し込むと、真っ白のワンピースに着替えた飛鳥が戻って来た。それに声を掛ける間もなく、爽太の短い出番が回ってくる。
 爽太の出番はそんなに多くない。欲を言えばもっともっと舞台に立ちたいところだが、初舞台なのだからこれで充分だ。全ての出番を精一杯やらなくては。栄は一瞬だけ袖に入った礼子先輩の後について、ゆっくりとライトの点く舞台上へまた足を踏み出した。

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