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第一幕 八場  千秋楽。ひとつめの節目。

 おしゃべりをする少女たちの|賑《にぎ》やかな笑い声が舞台上から聞こえてくる。
「由依ちゃん、返してっ! お願い!」
「やーだね。取り返してごらん!」
 楽しそうにケータイを振り回しながら逃げる由依を、陽子が追いかけて走り回る。それを見て、歩美と早苗は声を上げて笑った。
「もう、二人ともほどほどに……っ!」
 苦笑しながら叫んだ早苗の言葉が、不意に止まった。目を見開き、ぐっと胸を押さえる。呼吸もどんどん荒くなっていく。机に手をつき、それでも身体を支えきれずに床に崩れた。
「早苗ちゃん!?」
 歩美が悲鳴をあげる。追いかけっこしていた二人も、ふざけている場合ではないと慌てて駆け寄った。しかし苦しそうな早苗に何も出来ず、ただおろおろと声をかけるだけ。
「発作!?」
「早苗ちゃん!」
 そんな中、歩美は急にぱっと立ち上がった。机の脇にあった早苗の鞄を取り上げ、開けて中を探し始める。しかしその時、
「待って。」
 早苗が荒い息の中で弱々しく、しかしきっぱりと言った。
「大丈夫……大丈夫だから。」
 早苗は強く繰り返す。まだ苦しそうだが、立ち上がろうともがいた。
「ダメだよ、無理しちゃ。」
「まだ喋らないで。今、薬出すから。」
 友人たちが押さえるのも振り切って早苗は机を頼りに何とか立ち上がり、笑顔を作ってみせた。
「ほら。もう、本当に大丈夫だから。ごめん、心配かけて。」
 三人はまだ不安そうに顔を見合わせる。早苗が頷いてみせると、歩美は渋々といった風に鞄を元に戻した。陽子が手を貸して早苗を席に座らせると、早苗はふーっと大きく息をついた。額にはうっすらと汗が浮かんでいる。
「本当に、ごめんね。ビックリさせて、心配させて……」
「いいのよそんなの。」
 陽子が首を振ると、早苗はまた笑顔を見せる。やっとその場の緊張した空気が解けたようだった。歩美はまだ心配そうな沈んだ表情で、やがてぽつりと言った。
「最近は、あんまり発作ないと思ってたのにね……。」
 早苗もちょっと下を向いて、それから小さく頷いた。それから何か決心したようにぱっと顔を上げて三人の顔をまっすぐ見ると、すがるような目で言った。
「お願いがあるの。このこと、誰にも言わないで。特に、蓮くんに。」
 それを聞いてみんな驚いたように早苗を見た。由依はビックリして聞き返す。
「お兄ちゃんに? でも……」
「お願い。心配、かけたくないの。」
 早苗の真剣な目におされて、由依は仕方なく頷いた。
「……分かった。でも、無理は絶対にしないでよ。」
「うん、ありがと。ごめんね。」
 それきり早苗は俯いてしまい、由依まで何か考え込んでしまって、歩美と陽子はなんだか不安げに顔を見合わせた。
 一部始終の様子を冷たい瞳でじっと見ていた死神の存在に気付く者は、誰もいなかった。

 

 そんな舞台上の様子を袖から夢中で見ていたら、先輩が後ろから声をかけてきた。
「何か、気になるのか。」
 振り向かずに、無言で頷く。暗転してから振り返ってみたら、月香も栄の肩越しにじっと舞台を見ていた。
「先輩もですか?」
「ああ。たぶん同じ点だと思うが。」
 もう舞台上には、さっきの女子生徒たちは誰もいない。次のシーンの為にスポットライトが当たる位置に蓮とトワがスタンバイしているだけで、前のシーンに出た四人は全員反対側の袖にいる。月香はその中の一人、栄が見ていたのと同じ人をじっと見ていた。
 いつもの制服姿にポニーテールの活発そうな女の子、由依役の戸塚美園。
 彼女は……何と言うか、昨日より格段に活き活きして見えた。
 だが別に栄はただそれだけの理由で美園を見ていた訳ではない。先輩もそうだろう。一日目より二日目の方が活き活きしてぎこちなさも消えるのは、まあ当然といえば当然だ。一度やれば感覚も掴めるし緊張も少しは治まる。特に初めてと二回目ならその差は大きいもので、同じく初舞台だという康平役の七波や歩美役の京花、陽子役の梨絵なども昨日とは比べ物にならない。
 美園は、どうもそれだけではなさそうなのだ。具体的にどこがと聞かれても栄にはよく分からないし、昨日の公演後のあの怯えた表情と関係があるのかも確信はないけれど。
 栄が何か言いたそうに、しかし何も言えずにいると、先輩はぽんとその肩を優しく叩いて言った。
「ま、この話はあとで。もう出るぞ。」
 栄も舞台上のセリフを聞いて、頷いた。
「どうしてそんなにあたしに関わりたがるの? あなた、変よ。どうかしてる。」
 突き放すように言ったトワの声を聞いて、一拍おいてから二人は並んで舞台上に出た。‘爽太’を演じるために、栄は一度自分の気持ちをすべて封じる。同級生として蓮の肩をたたく時には、もうすっかり美園の事など心の隅に追いやられていた。

 

 楽しい時、どうして時間は飛ぶように過ぎてしまうんだろう。
 もう自分が出る最後のシーンだ。これが終われば、七月公演自体もうすぐ終わり。そう気付いたのは、そのシーンも半ばを過ぎた頃だった。だからと言って感慨深く今までを振り返ってる暇はない。まだ舞台は続いてるのだから。
「それなら俺と付き合えば? 歩美ちゃん。」
 とびっきりのスマイルで光がぐいと身を乗り出す。歩美は、三つ編みを揺らしてぷいとそっぽを向いた。この動きも雪穂がこだわりまくって何度もやり直したものだ。京花が演じるのに似合い、歩美らしく、そして最高に可愛い。
「お断りします。いっぱいいるガールフレンドの一人なんて、嫌ですもん。」
「見事にフラれたな。」
 からかうように声をかける。これが、爽太の最後の台詞。もっとも単に台本に書かれているのが最後だというだけで、‘会話’としかかかれてないところはアドリブで入る。そのアドリブが、実は栄はすごく苦手だ。
 光は、陽子の肩を抱いている爽太をちょっと恨みがましいような目で見た。
「ちっ、蓮も爽太もなんで俺よりモテるんだよー」
「だって、爽太センパイって優しいんですもん。」
 陽子が甘えた声で言う。すかさず由依が冷やかした。
「おー、ノロケだノロケだ。」
 笑いが起こる中、照明がだんだんと落ちる。完全に明かりが消えたのを確認して、みんな舞台袖に引っ込む。下手側に駆け込んだ栄は笑顔で、飛鳥と音が出ないようにハイタッチした。
 再び照明が点く。これが本当にラストのシーンだ。舞台上には蓮と、前のシーンのうちに制服に着替えたトワの姿があった。
「永久子、早く来いよ!」
「待ってよ、蓮。」
 このシーンでは、もうトワは死神ではない。永久子という人間の少女として、記憶の一部をなくした蓮と付き合っているのだ。追い付いたトワの肩を、蓮がぎゅっと抱き寄せる。どこからどうみても立派なバカップル……いや、お似合いの恋人同士だった。
 そんな二人が歩いているのと、一人の女子生徒がすれ違った。八重だ。彼女はそのまま通り過ぎようとして、不意に振り返った。
「蓮くん!」
「何?」
 振り向いた蓮の、何も考えていないような穏やかな微笑み。八重はすっかり何も言う気をなくして、ただ首を横に振った。去っていく二人を無言で見送る。小さく肩をすくめて立ち去ろうとすると、
 そこに、アンの姿があった。
「あなたは……」
 八重は何か言いかけて、彼女の目に寂しそうな色が浮かんでいるのを見て一度言葉を切った。
「……何か、知っているのね。トワちゃんのこと。」
 無言で頷いた小柄な死神は少しためらった後、口を開いた。
「あの子に、私たちの仲間だった時の記憶はない。私たちは感情に流されたら‘仕事’が出来なくなるから。人間として、ここで生きていくしかない。」
「……そう。」
 八重はそれ以上何も言わなかった。知ったところで、二人に何が出来よう筈もない。アンは続けた。
「彼の方は……ただちょっとあの子や私に関する記憶が曖昧になっているだけ。一部はいつか思い出すかも知れないし、一生このままかも知れない。でも、これは本人次第。」
 アンは言葉を切って八重を見た。まるで意見を求めるように。八重は、ゆっくりと、半ば独り言のように呟いた。
「全部忘れて、ただの人として生きる事が、本当に幸せなのかしらね。」
「私には分からない。きっと誰にも。それに、例えそうじゃなくても、私たちには何も出来ない。」
 アンの答えに八重は少し微笑み、そっか、と呟いた。そしてアンをまっすぐ見つめ、親しげな、友人に言うような口調で尋ねた。
「あなたは、寂しくないの? トワちゃんと喋れなくなって。」
 アンは意外そうな顔をして、初めて少し微笑んで答えた。
「人間的な言い方をすれば、そうね。」
 そして二人はお互いに背を向け、別れた。それぞれの方にゆっくり歩いていく。エンディングにみんなで選んだ音楽が小さく入り、少しずつ大きくなる。舞台袖に完全に入ると、アン役の沙矢子は満面の笑みを浮かべた。そこにいたみんなとハイタッチを繰り返す。
 いよいよ、最後のカーテンコールだ。
「歩美、狛江京花! 陽子、梅島梨絵! 由依、戸塚美園!」
 副部長である月香の声が響き、京花と梨絵がそれぞれ舞台袖を飛び出す。ここの演出は各々が自分たちで決めたものだ。中央に出た二人は客席に向いてウインクした。
「歩美ちゃんでーすっ」
「陽子ちゃんでーすっ」
「ただ今カレシ募集中!」
 二人で声を合わせ、ポーズを決める。二人が違う学年だなんてとても思えないほど息ピッタリだ。そこにおなじタイミングで出てゆっくり歩いてきた由依が、ばしんばしんとテンポよくハリセンで二人の頭を引っぱたいた。どっと客席から笑いが起こる。
 もちろんこれは美園が言い出した事ではない。むしろ先輩を叩くなんてと最後まで抵抗していた。|部庫《ぶこ》の奥から引っ張り出してきたハリセンを使いたいと言い出し、この場面で使う事を決めたのは他ならぬ京花だった。三人分の動きを決め、素早く部長に了承を取り、後輩二人に押し付けて言いくるめてしまったのだ。まったく、初めてなんて嘘じゃないかという即決と手際のよさだ。
 三人が仲良さそうに舞台の端へよけると、雪穂部長が次を呼んだ。
「爽太、神谷栄! 康平、町田七波!」
 舞台の向こう側の袖にいる先輩が頷くのを見て、栄も身構えて頷き返す。二人は同時に舞台に駆け出し、勢いをつけて飛び込む。栄は両手を、七波は片手を舞台につき、同時に綺麗に側転を成功させた。客席から歓声が上がるのを聞き、二人は笑顔でハイタッチ。揃って客席に一礼し、次のために場所を空けた。
「八重、白金雪穂! アン、小菅沙矢子! 早苗、西原飛鳥!」
 今度名前を読み上げるのは月香の番。中央に来た八重は優雅な仕草で頭を下げる。続いてアン。八重は親しげに彼女に手を振り、アンは興味なさそうにただちょっと八重の顔を見る。早苗はスキップで出てきて二人の間に入り、アンと手を繋いで脇によけた。八重はその反対側の端によけ、舞台上でそのまま次を呼んだ。
「光、白金月香!」
 カーテンコールが始まってから鳴り止まない拍手の音が、いっそう大きくなった。彼がカッコつけて投げキスすると、キャーっと悲鳴のような声が上がる。さすが月香様、大人気だ。
「蓮、相模礼子!」
「トワ、北沢奈々!」
 しかし何と言っても、主役が呼ばれた時の拍手の大きさには誰も敵わない。二人が舞台の両側からそれぞれ登場し、中央で手を繋ぐ。このために礼子が、二人一緒に退場した後わざわざ舞台裏を走ったのを栄たちは知っていた。二人が微笑んで客席に頭を下げると、バックにかかっている音楽が聞こえ難いくらいの拍手が響いた。主役二人の周りに全キャストが集まり、一列に並ぶ。
 ここまでは昨日と同じ、予定通り。そしてここで一斉に「ありがとうございました!」で幕が下りる――筈だった。少なくとも一日目はそうして終わった。しかし、部長は合図を出す代わりにいきなり舞台から客席に降りた。予定外の行動に驚く部員、そして観客全員の視線が集まる中、彼女は最前列にいた一人の女子生徒の手を引いて舞台に戻って来た。
 豊かな髪を右脇で一つにまとめた、フチなし眼鏡の真面目そうな二年生、岩淵笑実。
 蓮も舞台上から手を貸し、文芸部所属の脚本係の姿がライトに照らされた。突然の事に戸惑い、舞台に上がる事に慣れていないのもあってか頬をほんのり赤く染めている。月香が笑顔で声を張り上げた。
「この物語の作者、岩淵笑実に盛大な拍手を!」
 改めて大きな拍手が沸き起こる。脚本係と11人のキャストは、緞帳が下がりきるまでずっと深く深く頭を下げていた。

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