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第一幕 七場  初舞台後。達成感と、小さな陰と。

 舞台も半ばを過ぎ、クライマックスの二つ前のシーンを迎えていた。
「お、俺、誰か人呼んで来る!」
 蓮がぐったりとした康平をかかえて肩で息をしながら、下手側から姿を現した。光が二人を引き上げると爽太はそう叫んで立ち上がり、慌てたように走って上手の舞台袖に引っ込む。
「康平! おい、康平! しっかりしろ!」
 光の切羽詰まった声。爽太としての出番が一段落した栄は、客席から見えないように注意しつつ舞台上をそっと覗いた。本音を言えば客席から正面で観ていたい。
 康平を囲んで必死な彼らの背後に、ふっと白い人影が立った。少し佇んで蓮を見つめ、そっと悲しげに微笑むとそのまま舞台を横切って去っていく。その気配に、蓮がふと顔を上げた。
「早苗?」
「え?」
 光が驚いたように蓮を見る。蓮は夢見るような表情で立ち上がり、その白い影を追った。
「おいっ! 蓮!?」
 光の言葉もまるで聞こえないようで、蓮はそのまま舞台袖に姿を消した。光はしばしぽかんとした様にそんな友人を見送る。そして不意に、怪しい微笑を浮かべた。まるで、何もかも判っているというように。彼はそっと、康平の上に身をかがめる。そこでゆっくりと照明が落ちた。
 完全に暗くなり、跳ね起きた康平と光が舞台袖に駆け込む。再び照明が点き始めるのを見計らって、純白のワンピース姿の早苗がゆっくりとした足取りで舞台中央のスポットの中へと歩いて行った。少し間を取って、蓮がそれを追って舞台上に上がる。
「早苗!」
 蓮の声に、早苗は足を止めた。ゆっくりと振り返る。穏やかに微笑み、瞳にうっすら涙を浮かべて。
「蓮くん。」
 スポットライトに切り取られた空間の中、向かい合うふたり。その様子は、なんだかとても美しかった。
「お前が、俺を助けてくれたのか?」
 蓮の言葉に頷く早苗。その表情は少しだけ寂しげだった。早苗の白い姿は儚げで、今にも霞となって消えてしまいそうに思えた。さすが飛鳥、この演技力は凄い。普段の飛鳥とはあまりにも違うキャラクターに、栄は思わずひとり肩をすくめた。早苗の形のいい唇が動き、言葉が紡ぎ出される。
「本当は、いけないことなの。この世の人間の生死に関わっちゃいけない…。でも、私は、どうしても蓮くんに生きててほしかった。」
 静かな声。だが、胸がつまりそうな感情がひしひしと伝わってくる。蓮の声も震えていた。
「早苗……俺は、自分の命なんか惜しくない。俺の前で誰かが死ぬのを見るくらいだったら、俺が」
「知ってる。」
 蓮を遮った早苗の言葉は静かで、だからこそ彼は何も言えなくなった。彼女はゆっくりと言う。
「蓮くんのこと、みんな分かってる。蓮くんがそう思ってることも、私の死で自分自身を責めてることも、ちゃんと知ってる。でも、お願い、もうやめて。そんな風に自分を責めないで。蓮くんの所為なんかじゃないんだから。」
「早苗、俺は、」
「私は、もう行かなきゃならない。けど、忘れないで。私、蓮くんの事、ずっとずっと好きだから。」
 切なく微笑んだ早苗がいつになく遠い存在に思えて、蓮はとっさに彼女の手を取ろうと手を伸ばした。が、彼の手は虚しく空をかき、蓮は唖然として言葉を失った。早苗は自分の両手を目の前にかざして見せる。
「もう、私は実体じゃないから……ごめんね。」
 そして、蓮の顔を見て笑った。「いつもの早苗」の、明るくて無邪気な笑みだった。
「そんな悲しい顔しないで。私、幸せだったよ。短かったかもしれないけど、不幸じゃなかった。蓮くんがいてくれたから。少しの間、私と一緒に生きてくれたから。」
 蓮の頬に触れるように手を伸ばす。頬に触れるか触れないかという距離、でも触れることが出来ていないように見せる。練習の時はこの距離で目を合わせるたびに赤くなっていた飛鳥だが、今は全く平気になったようだ。蓮役の礼子先輩の方はというと、最初っから平気である。
「私、蓮くんに出会えて、とっても幸せだったんだよ? だからね、蓮くんには笑っててほしいの。私の、大切な人だから。」
「早苗……」
 彼女が微笑む。最後の言葉は、やっぱりちょっと震えていた。
「ありがとう。さようなら、蓮くん。」
「……ああ。じゃあな、早苗。」
 蓮の腕が、早苗の姿を抱くように包む。顔が近づき、二人はそっと目を閉じた。同時に明りが消える。再び照明が点いた時、蓮の前に彼女の姿はもう無かった。遠くの空をぼんやりと見つめる彼を残し、幕がするすると閉まっていく――。
 一瞬の暗転の隙に引っ込んだ飛鳥が舞台袖の隅でこっそり「ヤバイ、惚れる」とか言いつつしばらくニヤニヤしてたのを栄は見てしまった。せっかく感動シーンだったのに……早苗ちゃんのイメージ、台無し。

 

「一日目、終わったー!」
 カーテンコールも終わり、緞帳の下りた舞台上。京花が清々しい笑顔で小さく叫んだ。完全にリラックスして伸びをする彼女を、部長が軽くたしなめた。
「明日もあるし、気を抜くのはまだ早いわよ。」
 そして、幕を開けるよう裏方班に合図した。再び緞帳が上がり、明るくなった客席がはっきり見える。そこには、思った以上にたくさんの人が残っていた。
「蓮! 格好イイよー!」
「キャー! 光先輩イケメン!」
「トワ可愛いー!」
 緞帳が完全に上がりきる前から、先輩方の友人達だろう、黄色い歓声が響く。雪穂は優雅にお辞儀し、月香がふざけて投げキスをする。悲鳴のような歓声がいっそう大きくなった。京花は身軽に舞台から飛び下りて、手当たり次第の友達にありがとうと叫びながら抱きついている。
「えいちゃーん! あーちゃーん!」
 自分たちを呼ぶ声に客席を見渡すと、安芸子と愛那がこちらに向かって大きく手を振っていた。栄は手を振り返し、飛鳥と一緒に舞台から飛び降りて二人の元へ駆け寄った。途中、何人ものクラスメイト達に次々と声をかけられて、背中を叩かれ、もみくちゃにされる。さっさと通り抜けて行ってしまう飛鳥とは違ってその出来る限りに応えながら、栄は幸せだった。栄はこの瞬間が好きで、演劇部にいるようなものなのだから。
「二人とも、お疲れ様!」
 安芸子は笑顔で飛鳥に、そして栄に抱きつく。栄は一瞬戸惑ったけれど、感謝の思いを込めてしっかり抱き締め返してやった。愛那はまだそこまで親しいと言えない栄たちに抱きつくのは躊躇われたようで、遠慮がちに握手だけ求めてきた。栄は微笑んで、不意にイタズラ心を出して掴んだ小さい手をぐいっと引っ張って愛那を引き寄せ、そっとハグする。彼女が驚いて固まっているのが分かる。
「おお、栄ってばいきなりそんな大胆な。綾瀬ちゃん困ってるじゃん。」
 飛鳥がからかうように言い、愛那はますます身を縮める。放すと、面白いくらい真っ赤になっていた。
「ごめんごめん。ありがとね、観に来てくれて。」
 軽く肩を叩くと、彼女は気恥ずかしそうにちょっと笑った。飛鳥が冷やかすのを引っ叩いて倍返しされて、なんて莫迦な事をやっているのを、安芸子も愛那も楽しそうに、半ば呆れたように見ていた。
「そう言えば、志茂ちゃんと綾瀬ちゃんって知り合いだったんだ?」
 栄はふと気付いて、飛鳥に何度もバシバシ叩かれたあたりを軽くさすりながら尋ねてみた。安芸子と愛那はふと顔を見合わせて、それから同時に頷いた。
「うん。あれ? 知らなかったっけ。綾瀬ちゃんも私も図書委員。」
「中学の時もやってたもんね。」
 飛鳥が口を挟む。そう言えば、三人とも付属中学からの持ち上がりなんだっけ。すっかり忘れてた。
「懐かしいなあ、中三の文化祭とか。委員会って結構みんなやる気なくてさ、わたし達三人で殆どの作業やってたよね。」
「うんうん。」
「へー。」
 ぼやく飛鳥に、頷く安芸子と愛那。西原飛鳥は演劇部、志茂安芸子は文芸部、綾瀬愛那は手芸部と三人ともバラバラだけれど、委員会の繋がりというのは結構大きいようだ。何か委員というものに所属したことがない栄は、ちょっとだけ羨ましく思った。
「でも、ホント観に来て良かった。これ絶対捨てられないな。思い出にする。」
 愛那がB5くらいの白黒印刷の紙とノートの半分サイズの薄い小冊子を大事そうに持っている。栄も飛鳥もそれを見るのは初めてだった。
「何それ?」
「え、あーちゃん知らないの? 私ももらったよ。」
 安芸子も同じ物を取り出す。見せてもらうと、紙には全員の役名と顔写真、学年、本名が一覧になっていた。
「へぇ、こういうの作るの文化祭だけじゃないんだ。」
 思わず呟く。確かに写真は撮られたが、これに使うとは思っていなかったのだ。
「ここの演劇部って色んな意味ですごいもん。ほら、コレも。」
 そう言って安芸子が手渡してきた小冊子は……今回の脚本を担当した笑実先輩が書下ろしたサイド・ストーリーだった。
「おお、すごい。あっ、早苗も出てくるんだー。」
 ぱらぱらと目を通す飛鳥。そろそろキリがないな、と思った栄は、飛鳥の後頭部を軽く突っつく。
「何すんのよぉ。」
「いつまでも読んでないで、綾瀬ちゃんに返してあげなよ。笑実先輩に貰ってあげるから。」
 まだ周囲の先輩達も絶賛お喋り中なので大丈夫だとは思うが、この後ミニ反省会もあるから。
「そっか、明日もあるのか。大変だねー。」
「まあねー。来る?」
「まさか。同じの二回も観てどうすんのよ。」
 安芸子は大げさに肩をすくめて答える。公演が二日間あるのは、ずっと前、部員数も学校の生徒数も半端なく多かった頃の名残なんだそうだ。今の人数では二つに分けることは難しいし、二つの演目を同時進行するわけにもいかない。結局、部活なんかで見られない人がいないといいよね、という生徒側の言い訳のもと、同じ内容の舞台を二回やっている。
 残っていた人もだんだんと少なくなり始めて、安芸子と愛那も図書館で待ってるからねと言いつつ二人並んで講堂から出て行った。先輩方より一足お先にと舞台上に一度戻った時、栄たちは気付いてしまった。
 美園が一人、舞台袖に隠れている事に。
「……戸塚さん?」
 飛鳥が遠慮がちに声をかける。美園はビクっと身を震わせ、警戒した野生動物のような目で二人を見た。
「どうしたの? 具合でも悪いんなら先輩に言った方が」
「いい、何でもない。」
 飛鳥に言うというより自分自身に言い聞かせるような声はかすれていた。
 先輩たちはまだギャラリーに囲まれていて、なかなか抜け出せないようだ。今舞台上にいるのは美園、飛鳥と栄の三人だけだった。大勢が客席にいるが、誰もこちらを見てはいない。美園は逃げるようにふたりに背中を向ける。飛鳥はそれにさらに言った。
「ねえっ! ホントに心配してるんだよ、明日もあるんだし」
「いいからほっといてよっ!」
 美園の半ば悲鳴じみた声が飛鳥の言葉を強い調子で遮った。思ったよりも大声が出てしまった、というように美園は口を抑えてうつむいた。飛鳥も何も言えなくなってしまう。そのまま、美園がぷいと立ち去ってしまうのを止める事は、二人には出来なかった。
「どうした?」
 やっと抜けられたらしい七波が二人に声をかける。飛鳥は力なく首を振るだけで、何も言わなかった。
 その後に全部員揃ってのミニ反省会の時も、安芸子と愛那と合流しての帰り道も、飛鳥はいつになく口数が少なかった。美園のことがそんなに堪えたのだろうか、と心配した栄だったが、少し違った。電車を乗り換えて気の置けない幼馴染と二人きりになった途端、飛鳥は今までの鬱憤を爆発させた。
「何なのよあの言い種! あーっもう腹立つ! ほっといてよだとぉ? 人がせっかく心配してやったってのに。これじゃ要らないお節介焼いたわたしが悪いみたいじゃないの!」
 黙っていたのは落ち込んでいた訳ではなく、怒りを抑えていたらしい。栄は苦笑しながら、下手に口を出さない方が良いと判断してただ頷いていた。言いたいだけ言って少し落ち着いた飛鳥は、まだ不満げな顔のままぽつりと呟いた。
「今日は高校の初舞台で、一日テンション高くてすっごく楽しかったのに。一日中、機嫌よく過ごせると思ってたのに。」
「飛鳥……。」
 うつむいた飛鳥の肩を軽く叩き、小さい頃よくそうしたようにちょっと抱き寄せる。飛鳥は栄の肩にもたれたまま小さくありがとと呟き、栄がこれまで聞いたことのないような重い溜息をついた。

 

「で? それを丸一日経ってまだ引きずってると言いたいわけ?」
 雪穂部長の厳しい声に、飛鳥はしゅんとして下を向いた。
 翌日も一日目と同様、放課後すぐに部員達は講堂に集まった。まだ幕も開けっ放しで開場していないのだが、客席に入る扉の外にはもう気の早い人が集まっている。そんな準備中、いち早く美園と飛鳥の様子がいつもと違うことに気付いたらしい雪穂がまず飛鳥を、他の部員達の邪魔にならない隅に呼んだのだった。
「ったく、仕方ないわね。あの子の態度にも問題あるけど、引きずるほどの事じゃないでしょう。」
「……すみません。」
 飛鳥は小さな声でただ繰り返した。謝りながら、唇を噛み締めている。そんな様子を、栄は舞台上を行き来しつつハラハラしながら見ていた。中学の三年間離れていたとは言え、飛鳥と一緒に育った時間はあまりにも長い。双子のようなもので、お互いの事が気になってしょうがないのだ。特に栄が飛鳥の世話を焼くことが多かったから、姉のような心境かも知れない。
「こら、ボーッと見てんじゃない。こっちは忙しいんだぞ。」
 突然、月香に背中を叩かれて、栄はビクッとした。その耳元に口を寄せて、彼女は囁く。
「気になるのは分かるけどな。お前らも、俺らと同じようなもんなんだろ? 幼馴染。」
 そうか、やっぱり月香先輩も妹のことが気になるんだぁ。そう思いながら栄は頷いた。月香は雪穂の双子の姉。確かに血の繋がりの有無を別にすれば立ち居地は同じようなものかもしれない。
「気にしすぎるのも良くないぜ。所詮、別人格なんだ。ずっと一緒になんて、いてやれねぇからな。」
 そう言った月香の顔がどこか寂しそうで、栄は何か言おうと口を開きかけた。けれど。
「まあ、いいわ。舞台のほうは大丈夫よね?」
「はい。」
 その声に栄が振り向いた隙に、副部長はさっと姿を消してしまった。先輩の問いかけに強く答えた飛鳥は、まだ厳しい顔の部長と真っ直ぐに視線を合わせた。それを見た雪穂はちょっと笑いかけ、戻るようにと指示を出す。とんとんっと階段を上がって舞台上に戻って来た飛鳥は、何も言わずに、栄にうしろから抱きついた。
「あ、飛鳥?」
 身長の関係で、ほとんどぶら下がるようになる。声を掛けると、飛鳥は無言のままぎゅうっと腕に力を込めた。栄の背中に顔をうずめている。泣いている訳ではなさそうだが、栄はしばらく動けずにいた。
 少しして、飛鳥はやっと顔を上げた。そしていきなり、栄の背中を両手でドンとひっぱたいた。
「痛ぁ!?」
「さっ、衣装持って来とかなきゃ。」
 わざとらしいほど明るく言う。照れたように笑っていた。栄が振り返ると、軽くふくれてみせる。
「何よぉ。別に泣いてなんかないよ?」
 そしてそのまま、何事も無かったかのように自分の準備を始める飛鳥。たまたま通りかかった京花が、「これが流行のツンデレってやつか。可愛いー」なんて言ったけど、聞こえてないのか反応しない。栄は肩をすくめて、一人くすっと笑みをもらした。そして先輩方を手伝うため舞台袖へと小走りに向かう。飛鳥のあと美園が部長に呼ばれてたのは気付いていたしこれも気にならなくはなかったけど、準備の忙しさに紛れてそんな事はすぐ忘れてしまった。
 そして、表面上はにこやかに早苗と由依を演じながらも、飛鳥と美園としては微妙な緊張感を抱いたまま、二日目の幕が開いた。

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