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第一幕 二場  五月晴れ。さいしょの一歩をふみ出す時。

 部活動が出来なくなる中間テスト前、最後の部活の日のこと。部長が持ち込んだダンスのCDを使っての柔軟と、窓を開けて発声といういつもの基礎練習メニューを終えた頃、部室のドアがこんこんと叩かれた。部員は全員揃っているし……誰だろう? 部長には分かっているようで、なぜか嬉しそうに顔を輝かせる。
「ハイ、どうぞ。入って入って!」
「開ーけーてーくーれー! 両手塞がってるの!」
 聞き覚えのない女らしい声。礼子が素早く行ってドアを開ける。そこには、その言葉通り両手で紙の束を抱えた女子生徒が立っていた。さっきのノックはつま先でドアを軽く蹴飛ばした音だったようだ。二年生だし、先輩たちは全員顔見知りらしい。勝手知ったる様子で部室に入ってくると、持っていたものを手近な机にどさりと置いた。
「あ゛ー肩凝った。」
「お疲れさまー。よかったわ間に合って。」
 大きく伸びをする彼女の背を、雪穂が労うようにぽんぽんと叩く。そしてやっと、一年生達に状況が分かってないのに気が付いたらしい。
「そっか、みんなは初対面だったね。こちら、私の友達の岩淵笑実。文芸部の子なんだけど、今回の台本をお願いしたの。」
「初めまして。」
 紹介されてぺこりと頭を下げる眼鏡少女。隣りに立つ雪穂や奈々と比べてしまう所為か美人とは言い難かったが、笑うとふっくりした頬にえくぼが浮かび、なんとも優しい雰囲気をかもし出す。可愛らしいのとは違う、大人っぽい笑顔。お母さんのような、という例えが似合う。眼鏡の奥で瞳がきらっと光った。
「なんか有望そうな後輩達ね、雪ちゃん。私、脚本書いたの初めてだからとっても楽しみなの。」
 楽しそうに言う。ちょっと季節外れだけど、例えるなら大輪のひまわり。部員達が各々一冊ずつ台本を取って中に目を通しているのを眺めている。栄と飛鳥もドキドキしながら手に取った。思ったより分厚く、ずっしりとして感じる。表紙に書かれたタイトルを、七波が声に出して呟いた。
「えいきゅうのつばさ?」
「マッチー、それ、永久の翼って読むんだよ。Towa's wingsって書いてあるのは何の為だと……」
 すかさず突っ込むのは作者の笑実ではなく月香副部長。演出として脚本に関わっているという。
「分かった分かった。ところで、そのマッチーっていうのやめてくれない?」
 七波は苦り切った顔で言うが、期待はしてなさそうだ。そして返ってきた答えもその予想通りだった。
「やだ。だって‘なな’と‘ななみ’と二人いるとややこしいじゃないか。」
 確かにもっともな意見なので、マッチーこと町田七波もそれ以上文句は言わない。最近では後輩達にも「マチ先輩」と呼ばれるようになってしまい、諦め顔だった。さっきのツッコミだってほぼ形だけだ。
 と、変な方向に話がずれて和んだ雰囲気を雪穂がいきなり現実に引き戻した。
「台本も出来上がった事だし、今週中に役の希望出してテスト明け第一回にオーディションしよう。」
「ぇえー!?」
 愕然とした部員達。今日は木曜日。で、定期テストが再来週の水曜に終わるから次の部活は木曜日。つまり、テスト後は練習する時間が殆どないことになる。
「聞いてないよ、そんな急な話!」
 京花の半泣き声での抗議は、
「だって言ってなかったもの。」
 雪穂の台詞に無残に打ち砕かれた。確かにそうだが、あんまりだ。
「とりあえず土曜日までに、何かの紙に希望する役一つ書いて雪穂か俺に出すように。あ、ちなみに雪はA組、俺はB組な。」
 部長の言葉に動じなかったのはこの人くらいだろう。月香はてきぱきと必要事項だけを連絡する。まだ新入部員の誰もが具体的に考えていなかった初舞台が、急に現実味を帯びる。京花や七波はまだぶつぶつ言っていたが、完全に黙殺された。
 栄は手にした台本の表紙をめくった。1ページ目には役名と簡単な説明の一覧。キャストはきっちり部員数と同じ11人だ。
「キャスト表に書いてある順番は、そのまま登場人物の重要度だと思ってもらって構わないわ。舞台経験ある人は出来ればチャレンジする方向で行ってほしいな。もちろんやる気があれば誰でも構わないし、先輩後輩遠慮は無用よ。」
 にっこりと雪穂が言った時、ちょうど部活動終了時間のチャイムが鳴った。それぞれ三々五々(と言うほどの大人数でもないが)帰っていく中で、美園がいつまでもキャスト表を見つめて考え込んでいたのが少々気にならなくもなかった。

 

 

 土曜日の夕方。栄は自分の部屋のベッドに寝転んで台本を読み耽っていた。
 主人公は高校生の少年・蓮。簡単にいうと彼が感情を持たない死神の少女に出会い、彼女は蓮と触れ合ううちに彼に恋するようになるというストーリーだ。多少セリフや出番の数に差があるのは当り前の事だけれど、際立って少なすぎる登場人物はいない。改めてキャストを11人きっちりに揃えた先輩は凄いなあと栄は感心した。
 栄が希望したのは、主人公の蓮役。先輩にもああ言われた事だし、と思い切って書いてしまったのだ。やりたい気持ちは本当に大きいし、中学の頃から男役が多かった事もあって男だから難しいとは思わなかった。でもこうして読んでみると、本当に出番も台詞もかなり多い。もう一人の主役と言える死神の少女、トワほどではないが演技の面でも難しい役だ。栄は、蓮の台詞のひとつを声に出して呟いた。
「俺は、トワが好きだよ。最初に会った時からずっと。俺はこいつを守る。そのためなら、俺は例えお前だって敵にまわしてやるさ。」
 恋する少女を守ろうとする主人公の言葉。彼のセリフの中で、栄が一番好きなものだ。このとき対峙する相手は、きっと先輩だろう。これも難しい役だから。けれど、それで怯むつもりはない。全体を通して読んでもう一度‘蓮’を演じたい気持ちを再確認した頃、枕の脇に置いてあった携帯電話が鳴った。飛鳥だ。
『もしもし、栄? 今何してる?』
「台本読んでたとこ。そっちは?」
『同じよ。ところで栄、あんたいい加減どの役を希望したのか白状しなさいよね。』
 言葉に詰まった。
 一緒に希望を出しに行った飛鳥にも偶然会った他の部員にも何を希望したか聞かれたのだが、誰にも何役を希望したか言わなかったのだ。主役がやりたいと言うと、やっぱり少し自惚れてるように自分でも思えたから。しかし飛鳥は、栄や同級生に聞かれるとあっさり蓮の彼女・早苗役を希望したと答えた。
「早苗って……いいのお? 前半で死んじゃう役じゃない。」
 早苗は幼いころから病気で、真ん中あたりのシーンで命を落とす。その後全く出ない訳ではないが、どうしても出番も台詞もやや少ないのだ。同じく演劇部の一年生である梅島梨絵にそう聞かれた時、飛鳥はにっこりして答えた。
「うん、でもやりたいんだ。大事な役だし、あらすじ読んで、とっても惹かれたの。」
 飛鳥のその気持ちも分からなくない。早苗の朗らかでいて陰のある、儚い小花のような明るさはどこか惹かれる所がある。自分の命がそう長くない事を知っているからこその輝きなのかも知れない。
 当然その時、飛鳥や梨絵たちは栄も言うようにと迫って来た。が、どうにも恥ずかしくて言えなかったのだ。栄はそっと聞いてみた。
「……笑わない?」
『笑わないよ。』
 電話の向こうの飛鳥の声が真面目にそう言ったので、栄はやっとその役名を口にした。
「蓮……だけど、やっぱり自信ないよ。」
『何言ってんのよ莫迦。』
 ため息とともに吐き出した言葉を、飛鳥はぴしゃりと否定した。
『中学で主役やった事だってあったでしょ? 一年生とは言え経験者なのよ。自信持ちなさいって。』
 確かに言われてみればそうだ。栄が中学の文化祭で主役を演じた時、飛鳥はちゃんと観に来てくれた。逆に栄も飛鳥の舞台は学校部外者でも可能な限り全部観ている。もしかしたらこういう事に関しては姉妹よりも近い間柄かも知れない。
「ありがと飛鳥。なんか、今の言い方姉ちゃんみたい。」
 栄はそう言って、くすっと笑った。飛鳥も笑っているのが聞こえる。
『困った奴。ちびの頃は末っ子役だったわたしが世話焼かないといけないなんて。ま、希望通りになるかは分かんないけどさ、頑張ろうよ。』
「お互いにな。おやすみ、早苗。」
 わざとまだ決まってない役名で呼んで、飛鳥が何か言うより前にさっさと電話を切った。ごろりとベッドに寝転ぶと、台本を胸に抱えて目を閉じる。七月公演――高校の初舞台まで、あと二ヶ月ほど。はやる気持ちは抑え切れないけど、何が起こるかなんてまだ分からない。そう、誰にも。

 

 

 オーディションの日はあっと言う間にやって来た。
 部室で待機している中、一人ずつ近くの空き教室に呼ばれて面接という形だった。終わった人が次に指名された人を呼ぶ。それに特に規則性は無いようで、いつ呼ばれるか全く予測が出来ずかなり緊張する。何番目かに飛鳥が呼ばれてから、栄は緊張を紛らわそうともう一度台本に目を通していた。
「栄ちゃーん、どうしよう、緊張しすぎて心臓が痛いよう。」
 そんな風に話し掛けて来たのは、同じ一年生の梨絵。黒々した真っ直ぐな髪をちょうど肩の辺りで切りそろえた彼女は、いつも明るい顔に泣き笑いのような情けない表情を浮かべている。ちょっと後ろを振り返って、いつも一緒にいるクラスメイトを目線で指して言った。
「沙矢たんはもう終わったんだって。ねえ、栄ちゃんって舞台経験あるんでしょ?中学の時はどんな感じだった?」
 ‘沙矢たん’とは、彼女が指した小菅沙矢子の事だ。確かに沙矢子はもうリラックスした表情で、劇とは全く関係ない何か文庫本を読んでいる。栄は梨絵に向かって答えた。
「確かに中学の頃やってたけど、役決める人によってこういう時聞く事は違うもん。私に言えるのは、希望する役の重要そうな台詞は練習しとくと良いよって事くらいかな。」
「そっかあ。」
 まだ不安そうだ。気持ちは分かるから、栄はちょっと苦笑いして付け加えた。
「どんな質問されたかなら、終わった人に聞いた方がいいと思うよ。」
「そうだね。ありがとう。よし、沙矢たんに聞いてみる。」
 梨絵がちょっと笑ってそう言った時、部室のドアがガラッと開いた。まだ終わっていない栄と梨絵、それにあと数人は思わず身を固くする。
「終わりましたー。栄、次来てって。」
 安堵からか少し笑いを含んだような飛鳥の声が、部室に響いた。

「失礼します、神谷です。」
 中から雪穂がどうぞと答える声を聞いてから、栄は思い切って一息に教室のドアを開けた。窓を背景に机が四つ。そこに、それぞれタイプの全く違う四人の女性が並んで座っていた。
 右から二人は当然、部長と副部長。この二人が並んでいるのを見て、不意に脳裏に子どもの頃読んだ絵本のお姫様と王子様のイメージが浮かんだ。高貴な雰囲気を感じさせる、何ともいえない威厳。後光が射して見える気がするのは決して窓の外が晴れてるからだけではなかろう。
 その隣りにいるのは岩淵笑実。ふんわりとした聖母のような微笑を浮かべている彼女は演劇部員ではないが、今回の脚本を書いたのだからオーディションに関わるのは当然である。
 そしてラスト、四人目。一番端にいたのは、栄が今まで一度も部活で顔を見ていない人物だった。
 彼女のクラスの英語教師、川崎縁。
 もちろん栄だって、川崎先生が演劇部の顧問である事を知らなかった訳ではない。だけど今まで活動に顔を出した事もなかったし、他の多くの部活の顧問と同じように活動にはあまり関わらない人かと思っていたのだ。若くはないが色白の美人で、きゅっと引き締まった顔は一見年齢を感じさせない。豊かに流れるふわふわとした茶色っぽい髪はどこか百獣の王を連想させる。授業中も普段も特に態度などに厳しいと有名だが、怖い訳ではなくとても優しいので生徒からの人気は高い先生だ。
 錚錚たる面々を前に、栄は緊張で完全に固くなってしまう。まず雪穂が口を開いた。
「神谷さんは、蓮役の希望だったわね?」
 何も言えず、ただ頷く。この役を希望した理由などいくつかありきたりの質問をされた後、いくつか蓮の台詞に加えその友人達の台詞も読まされた。もちろん希望の役じゃなくたって必死で演じる。じゃあ最後に、と笑実が栄の目を真っ直ぐに見て尋ねた。
「そうね、例えばの話。蓮じゃないとしたらどの役を演じたい、なんて考えはある?」
 栄は不意を衝かれてしばし考え込み、でも思い切って正直に言った。
「いえ……考えてませんでした。でも、蓮じゃなくても決まった役は精一杯やりたいと思います。」
 その答えに満足だったのか、笑実は嬉しそうににっこりする。部室に戻ったら奈々ちゃん呼んでねー、という副部長の声を聞きつつ、栄は最後に一礼してオーディション会場を後にした。

 

 

「怖い。なんかテスト返却の時みたいな気分。」
「え?」
 栄がそんなことを呟いた沙矢子の方を振り返ると、机に身を投げ出していた彼女は同じように変な顔をしている梨絵にも説明するように言った。
「返って来る事はとっくに分かってるし来なきゃ困るんだけど、やっぱり結果見るのが怖いなって。」
 今日はオーディションの結果発表の日。みんな表面上はいつもと変わらない様に見えるが、どことなくピリピリした空気が漂ってる。京花なんて、さっきからドアの音がするたびにビクついていた。
 あーもう沙矢たんがそんな事言うから余計怖くなっちゃったじゃん! なんて梨絵が叫んだ時、ガラッと部室のドアが勢いよく開いて、部長が月香と笑実を従えて入ってきた。
「お待たせーっ、さあいよいよ配役発表しちゃうよん。」
 楽しそうに言う彼女とぎゃーっと悲鳴のような声を上げる部員達の様子は、確かにテスト返却時の教室の様子に似ている。笑実がいやにニコニコしながら手に持っている紙を開く。
「よーし、まず最初に、主役から! トワ役は……」
 彼女は一度口を閉じ、みんなの顔を見回す。居心地が悪いほどの静寂。ぴっと空気が張り詰め、グラウンドなどから聞こえる他の部活の喧騒も遠くにしか聞こえない。たっぷり5秒は溜めてから、その口からヒロインの名前が告げられた。
「……北沢奈々!」
 ――え?
 部室のどこかからそんな声が上がった。恐らくそんな気がしただけだろう。でも、心のどこかでこの難しい主役は部長が演じるに違いないと思い込んでいたのは栄だけではない筈だ。現に一番驚いているのは、名前を呼ばれた奈々自身であるように思えた。彼女は普段ほとんど感情を表に出さないタイプなのだが、瞳を大きく見開いて両手で口を押さえている。
 一瞬の静寂。その後、誰からともなく拍手が上がった。部室が暖かい拍手で満たされ、奈々はゆっくり立ち上がって頭を下げ、消え入りそうな声で言った。
「ありがとうございます。よろしくお願いします。」
 拍手が自然に止むのを待ち、笑実先輩が再び口を開く。次に発表されるのは当然、もう一人の主役といえる蓮だろう。栄は緊張に身をこわばらせ、祈るような気持ちでその瞬間を待った。

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